こしのづかじょうし
小篠塚城址について
正慧寺は小篠塚城址の敷地内にあります。
小篠塚城は室町時代に存在しておりました。
鹿島川右岸の台地上にあり、台地先端部の西側に城の中心部となる一番広い平坦地があります。
ほぼ全周されている土塁や本丸、二の丸、見台、空堀などが現在でも残っています。
佐倉市埋蔵文化財に指定され、平成19年には一部が発掘調査されています。
そこでは、古墳時代の住居跡が発掘されました。
20年程前までは管理が行き届いておらず、竹林や雑木に覆われていましたが、現在は遊歩道や駐車場などが整備され、小篠塚城址園として城跡などを散策することができます。


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こしのづかじょうし
小篠塚城址の歴史
小篠塚周辺は鎌倉時代に千葉氏により開拓されました。そして、鎌倉時代後期~室町時代初期に小篠塚城が築城されたと考えられています。
室町時代になると、室町幕府や関東菅領と対立してしまいます。
そして1471(文明3)年に茨城県古河市に城を構えていた足利氏(武家の一つの軍事貴族)古河公方の御所 古河城が落城し、当時の初代古河公方 成氏は仲の良かった現在の千葉県を統括していた千葉氏を頼りました。
その結果、成氏は小篠塚城に動座(居を移すこと)します。
なぜわざわざ遠く離れた古河から千葉へ移ったのでしょうか。
当時の下野国(栃木県)、常総国(茨城県)、武蔵国(埼玉県)、下総国(千葉県)は香取内海という大きな内海(陸地と陸地との間に挟まれ、狭い海峡によって外洋と繋がっている海域)でつながっていました。
そして、千葉県の多くの主要な城は香取の内海の淵に建てられています。
これは、陸路よりも香取の内海を渡ったほうが移動が早く楽に各地を行き来すること、他地域から敵の侵入を防ぐことができたことがあげられます。
小篠塚城も同様に香取の内海に隣した場所にあり、さらに千葉城と本佐倉城を結ぶ陸路(現在の国道51号線)にも通じており、陸海交通の要所でした。
武力の衝突があった際に援軍を得やすい場所であったことなどから小篠塚城に腰を下ろしたと考えられています。
その後、成氏は古河城に再び帰還します。
1497(明応6)年に成氏が亡くなると、嫡子である足利 政氏が2代目古河公方となります。
そして、1502(文明11)年になると、千葉氏の中でも内紛が続き古河公方と対立するようになったため、千葉氏討伐のため政氏とその息子3代目の高基が小篠塚城に動座します。
文献には1504(永正元)年まで記録が残っていますが、推定1550(天文19)年あたりまでは動座城として利用されたと考えられています。
しげうじ
しもづけこく
ひたちくに
むさしこく
しもうさこく
まさうじ
たかもと
小篠塚城の御城印

近年、寺院や神社の御朱印がブームとなっていますが、お城にも登城記念となる御城印というものがあることをご存知ですか?
当御城印は現在の正慧寺が小篠塚城址の敷地内に立地し、遡ること室町時代に初代古河公方足利成氏の跡を継いだ、二代目足利政氏とその子である高基とのご縁があったことから、各々の花押をデザインとしました。
御城印には小篠塚城主古河公方足利政氏、高基父子を描いた絵をモチーフとし、さらには足利氏の家紋「二つ引両」と古河公方を支援した下総国千葉氏の家紋「月星」を描いてございます。
城址下の別院安養院及び佐倉市観光協会の窓口にて1枚300円でお求めいただけます。
本丸、二の丸や土塁などが今でも残る小篠塚城址は、春はさまざまなお花、秋には紅葉に彩られていきます。
室町ロマンを感じながら城跡を歩いてみませんか?
御城印はきっと良い記念になることと思います。
しょうにんづかこふん
上人塚古墳について




正慧寺より徒歩7~8分(約600m)ほどの場所にある正慧寺が保有しております古墳でございます。
佐倉市 文化財史跡 根郷地区
昭和41(1966)年9月26日 市指定史跡
小篠塚にある上人塚古墳は鹿島川を眼下に望む標高32mほどの台地縁辺に位置しております。
北側と東側の一部分が削平されていますが、よく整った方形を呈し、1辺22.6m、高さ3.5mを測る市内でも有数の方墳です。
未調査のため、埋葬施設や副葬品については明らかではありませんが、占地状況及び形態から古墳時代終末期(7世紀代)の所産と推定されています。
この古墳の南西側には直径8mほどの円墳も存在しています。
空也上人との関わり
900年代に空也上人が下総・東北を遊行中に「平将門」と「側室の桔梗」の3名が、ここ上人塚に立ち寄ったこと、そして、上人が手を合わせてから上人塚と呼ばれるようになったのでは…と言われています。